ドナルド・キーンの文学散歩

 ドナルド・キーンには、『日本文学散歩』(朝日選書51 1975)という、週刊朝日に1974年から1975年にかけて21回わたって連載した、ちょっとユニークな著書があります。タイトルは似ていますが、それとは別に、ここではドナルド・キーンが論じた古典から現代の主に日本文学において、それに関する土地や遺跡、建物、風景などなどを訪れた時のことをご紹介したいと思います。訪れる人は、ドナルド・キーンであったり、また息子のキーン誠己(私)であったりします。そういう意味で、やはり文学散歩だと思います。それだけではなく、ドナルド・キーンがそのことについて論じたことやその作家についても触れてみたいと思います。また時には日本文学だけでなく、海外の文学についても触れてみたいと思います。
 その都度写真も添えさせていただきますので、お楽しみいただけたら幸いです。

石川啄木

 先ず、今回は第一回目ですが、いわば文学散歩の序章として函館に行ったときに、石川啄木のお墓と、大森浜の銅像を訪ねたときのことです。
 啄木と言えば父ドナルド・キーンが生涯追い求めたテーマだったともいえます。父にとって最後の作品も『石川啄木』(新潮社 2016)で、文学者の評伝としてはベストセラーといっても過言ではないでしょう。若いころからかなり多くの啄木論を書いてきたと思いますが、講演なども収録したら啄木だけで2,3冊の書籍になると思われます。それほど啄木が好きだったといえます。
 それだけに啄木ゆかりの地を、折に触れて何回も訪ねていました。私も父と二度函館を訪ねました。2012年7月21日午後に、テレビ番組の撮影のため函館の啄木ゆかりの地を訪ねました。写真はそのときのものです。

 以下は、『日本細見』(中央公論社 1980年)の「函館」からの引用ですが、啄木について次のように書いています。
 「明治四十五年に東京で没した啄木の遺骨は、函館の立待岬の、遥かに海を見おろす高い崖の上に埋葬された。墓石の表には、おそらく啄木のもっとも有名な作品であった次の歌が刻み込まれている。

   東海の小島の磯の白砂に
   われ泣きぬれて
   蟹とたわむる

 啄木は二十六歳の若さで死んだが、日本の詩歌のなかでももっともよく知られている作品を何作か残している。いろいろな詩形を試みたが、特に短歌に秀でている。啄木の詩も散文も、その強烈でまったく独特の人柄をよく伝えている。函館で生まれた人間ではなかったが、この町に短いけれども住んでいたことがあった。その海辺の墓地に埋葬されたいと希望したのは、きっとすばらしい眺めを思い起してのことなのだろう。」(中矢一義訳)
 ここでは啄木についてもっと多くのことを書いていますが、啄木について書く時の父の筆致は、いつも啄木への愛情に満ちていて、ある種の憧れもあるように思えます。

 この文章は、もとはと言えば、日本航空に依頼され、外国人社員に日本の地方都市を紹介するために、函館を取材した時のもので英語で執筆されました。いずれにしても啄木同様に海を見おろす風景にすっかり魅せられた父は、啄木の近くに墓を建てて眠ることさえ考えていたのです。
 しかし父は、実際には東京の家から至近距離にある真言宗のお寺に墓を建てましたが、遺された遺族にとってはそれはそれはありがたいことでした。一年に一度か二度くらいは函館に行くのは楽しいでしょうが、やはり墓は近いに越したことないと思います。
 その日は風の強い日でしたが大森浜の啄木の銅像もゆっくり見学しました。

※今後随時コンテンツを追加していきます。