(注)年譜作成にあたっては、『ドナルド・キーン著作集 別巻 補遺:日本を訳す/書誌』(新潮社、2020年2月)及び『別冊太陽 日本のこころ254 ドナルド・キーン 日本の伝統文化を想う』(平凡社、2017年9月)を適宜引用した。また多くの方々に貴重な情報を提供いただくなど、多大なご協力をいただいたことに、心より感謝する。未確定の情報については「?」で示しており、今後調査を進めていく予定である。以下の年譜は、2024年(令和6年)5月22日版である。
1920(大正9)年 | 10月7日、ジョセフ・フランク・キーン(Joseph Frank Keene)(22歳)とリナ・バーバラ(Rena Barbara Keene)(22歳)が結婚。 |
1922(大正11)年 | 6月18日、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区東48丁目1724番地で、父ジョセフ(24歳)と母リナ(24歳)の間に、長男ドナルド・ローレンス・キーン(Donald Lawrence Keene)が生まれる。 父ジョセフは、1898年8月17日にロシア(リトアニア)で生まれ(祖父ウィリアム・キーン、祖母フランシス・ブランド)、1899年一家でニューヨーク市ブロンクス区に移住した。1918年10月9日ー12月7日まで入隊。ドイツ語やスペイン語に堪能で、欧州で買い付けた古着をアメリカの製紙工場に卸すなど貿易商を営む(古着は再生紙の材料となる)。一方、母リナは1898年5月17日ニューヨーク市マンハッタン区(祖父アイザック・グロンバーグ、祖母レイチェル・コーン)で生まれる。フランス語を嗜み、フランス語で詩作した。 |
1924(大正13)年 2歳 |
ブルックリン区東26丁目1334番地(1334 East 26th Street Brooklyn N.Y.)に転居(詳細な年月日は不明)。 12月1日、妹のルシール・キーン(Lucille Keene)が生まれる。2歳半頃、アイロン台の上で扁桃腺の手術を受ける(後に子どもの頃の最初の記憶として言及)。 |
1928(昭和3)年 6歳 |
9月、ニューヨーク市立193小学校(Public school 193)である The Gil Hodges School(2515 Avenue L, Brooklyn, NY 11210)に入学。 |
1929(昭和4)年 7歳 |
10月24日、ニューヨーク・ウォール街の株式取引所で株価が暴落すると、父の膝の上で「この日」を絶対に忘れてはいけないと言われる。世界経済大恐慌により、父ジョセフは貿易商の規模を縮小せざるを得なくなる。 |
1931(昭和6)年 9歳 |
7月、父とともに航路大西洋をわたり、フランス、オーストリア、チェコ、ドイツを旅行した。ウィーンからベルリンに行く際に、初めて飛行機に乗る。またこの時、父の仕事仲間の娘(フランス人)と英語で会話ができなかったことから外国語に強い関心を持つようになる。 |
1932(昭和7)年 10歳 |
クリスマスプレゼントだった子供向け百科事典別巻三冊のうち一冊が「日本」であり、この時から日本を意識するようになる。 |
1933(昭和8)年 11歳 |
9月、学業優秀により1年飛び級で市立セス・ロー中学校(Seth Low Intermediate School 96, 99 Avenue P, Brooklyn, NY 11204)に入学。フランス語を習得。 |
1934(昭和9)年 12歳 |
8月24日、妹ルシール・キーンが Long Island College Hospital に5日間入院したのち、急性呼吸不全により死去(9歳)。妹の亡くなった翌年から毎年、ルシールの誕生日である12月1日に母へ花を贈る。埋葬地は、Mokom Sholom Cemetery(Ozone Park, Queens County, New York)。 |
1935(昭和10)年 13歳 |
ノルウェイ人のハウスキーパー、シジー(Siggie)よりはがきをもらう。 |
1936(昭和11)年 14歳 |
父がスペインのバルセロナ、マドリッドにラジオの部品工場を建てたため一家で移住することを決めていたが、7月から勃発したスペイン内乱の影響で中止となってしまう。 両親の別居によりニューヨーク市ブルックリン区東22丁目540番地のアパートに転居。母と二人での生活が始まる。 9月、市立ジェームズ・マディソン高校(James Madison High School)に入学。 |
1937(昭和12)年 15歳 |
学内紙「マディソン・ハイウェイ」(The Madison Highway)の編集長として小説を発表し、12月にはオーソン・ウェルズ(Orson Welles)にインタビュー。 夏、高校のクラスメイトと一緒にニューヨーク市立大学シティカレッジ近くの野外劇場、ルーイソン・スタジアムにて初めてオペラを観る(ビゼーの《カルメン》)。 |
1938(昭和13)年 16歳 |
6月、学業優秀により1年飛び級で高校を卒業する。‘DEATH COMES TO BIDDLEDUB’ が 卒業記念アルバム The LOG (James Madison High School)に掲載される。The LOG の卒業生一覧によれば、Seven gold scholarship pins; Highway business manager; French medal; Spanish pin を獲得しており、またアルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson)の Ulysses から、“Yearning in desire to follow knowledge like a sinking star Beyond the utmost bound of human thought.” を(座右の銘として)引用している。 The LOG が高校のシニアクラスに配布された当日11時から、 “The Senior Class of James Madison High School presents THE ROYAL COURT OF MADISONーA modern Morality play in One Act ” が上演され、The Duke of Wisdom 役で出演。 |
1939(昭和14)年 17歳 |
夏、ニューヨーク万国博覧会に李(リー・スイリン)と四回か五回赴く。 12月、大学二年の授業の課題論文として「フローベールにおける象徴性」(‘Flaubert’s Symbolism’)を執筆。指導教授から高評価(A-Excellent)を得る。 |
1940(昭和15)年 18歳 |
秋、アーサー・ウエーリ(Arthur Waley)訳、The Tale of Genji(『源氏物語 』)の二冊本をニューヨークのタイムズスクエアにある書店で49セントで購入、繙読する。 大学三年生になり、中国語の授業を受講した際に生まれて始めて日本語を聞く(日本語のレコードを聴いた)。 |
1941(昭和16)年 19歳 |
夏、ノースカロライナ州西部のグレート・スモーキー・マウンテンズ山中のジャック・ケーア(George H. Kerr)の別荘で、横浜生まれの年長者ポール・ブルーム(Paul Blum)(のちのCIA初代東京支局長)とともに、日系二世の猪俣忠から二か月間日本語を教わる(教科書は『小学国語読本』)。 9月、四年生の新学期から、角田柳作のもとでたった一人の学生として「日本思想史」を受講。角田はドナルド・キーンが生涯にわたり「センセイ」と呼ぶ唯一の恩師となる。 12月7日、猪俣忠とともにスタテン島での一日ハイキングを終えたその晩、夕刊紙「インクヮイアラー」で日本軍がハワイ真珠湾を襲撃したというニュースを知る。翌日の12月8日、角田柳作が「敵性外国人」として逮捕される。翌年3月までエリス島に抑留。 |