1月16日から、ケンブリッジ大学構内コレッジの大教室で学生を含めて聴講生10人余を相手に、「日本の文学」を5回にわたって連続講義。 2月、英国王ジョージ6世の崩御(2月6日)に衝撃を受ける。 5月、The Japanese Discovery of Europe: Honda Toshiaki and Other Discoverers, 1720-1798(『日本人の西洋発見』)が、London: Routledge and Kegan Paul から刊行される。 6月、コロンビア大学東アジア研究所初代所長ジョージ・サンソムの自宅訪問。 夏休みの間、ニューヨークに戻りコロンビア大学で編纂されていた Sources of Japanese Tradition(『日本伝統の源泉』)の翻訳の手伝いをする。 秋、ロシア語を勉強する。 11月18日、ロンドンのコヴェント・ガーデンのロイヤル・オペラハウスで、マリア・カラス主演、ベッリーニ作曲の《ノルマ》を鑑賞。人生における最高のオペラ体験の一つとなる。
1953(昭和28)年 31歳
4月頃、『奥の細道』を翻訳。 5月、The Far Eastern Quarterly(『遠東季刊』)に発表した、 ‘Jōdai bungaku shi: a history of ancient literature.’ by Sasaki Nobutsuna(「佐佐木信綱著『上代文学史』評」、1952年8月)が『文学』(岩波書店)に同誌編集者の玉井乾介訳で無断掲載(日本デビュー作)。 5月26-27日、エリザベス女王の戴冠式のため訪英中の皇太子(のち天皇明仁)の通訳としてケンブリッジ大学構内を案内。27日には、ダイニング・カレッジ学長にして大学の副総長であるライオネル・ホイットビー(Lionel Whitby)夫妻主催の晩餐会に出席。晩餐会には、皇太子、小泉信三、日本学者エリック・キーデル(Eric Ceadel)夫妻、月食観測のため北海道を訪れたことのあるフレデリック・ストラットン(Frederick Stratton)も出席した。 6月、フォード財団の奨学金を得て(研究テーマ「現代日本に残る古典文学の伝統」)、イタリア、イラク、インド、セイロン(現 スリランカ)、シンガポール、インドネシア、タイ、カンボジア、香港を旅行。アジャンタ、アンコール・ワット、ボロブドゥルの仏教遺跡が最も印象に残る。ケンブリッジ大学に籍を置いたまま、京都大学大学院へ留学。 8月24日、京都着。青島での友人、横山正克が出迎え横山邸(北部の衣笠山麓)に逗留。横山邸の向かいに住む画家井澤元一を紹介される(9月頃)。龍安寺、サントリー山崎工場(サントリー創始者の鳥井信次郎に会う)、先斗町を訪れる。 9月、同志社大学教授オーティス・ケーリの紹介で京都市東山区今熊野南日吉町23の無賓主庵(奥村綾子管理)に下宿。この下宿で永井道雄(のち文部大臣)を知る。 10月、京都大学国文科大学院で野間光辰教授の講義を受講する。 10月2日か5日?、北野天満宮の宮司である香西大見の案内で第59回伊勢神宮式年遷宮に参列する。 11月、金剛能楽堂で『船弁慶』、南座で250年ぶりに復活上映された歌舞伎『曽根崎心中』(お初:二代目中村扇雀)を観劇。 智積院で書を習う。 12月14日、同志社大学徳昭館で行われた卒業生予餞行事で、日本語での初の講演(演題:「比較文学について」)。 12月20日印刷、『文藝春秋』1954年1月号に小泉信三の「外遊日記」が掲載される。本文ではドナルド・キーンについて言及されており、ドナルド・キーンが日本のマスコミに登場したのはこれが初めてとなる。 暮れに、春日神社の祭りで茂山千五郎の演ずる『船渡婿』を観て、狂言が好きになる。 芭蕉の研究に没頭しつつ、『日本文学選集』(Anthology of Japanese Literature: From the Earliest Era to the Mid-Nineteenth Century と、 Modern Lapanese Literature: an anthology)の編纂に打ち込む。また、潁原退蔵の『芭蕉俳句新講』上下巻(1951年)を読む。 Japanense Literature: An Introduction for Western Readers(『日本の文学』)が、London: John Murray より刊行される(以後、日本語版、スペイン語版、イタリア語版、ドイツ語版、ギリシャ語版、ルーマニア語版刊行)。
1月1日、井澤元一宅を訪問。 1月、『中央公論』に「紅毛文芸時評」を日本語で連載。 『新潮』1月号に掲載された三島由紀夫の戯曲『班女』の翻訳に取りかかる。 2月、吉田健一の招きで「鉢の木会」に出席、石川淳、河上徹太郎、大岡昇平、福田恆存、中村光夫らを知る。 2月、『演劇評論』(3巻2号)に「「夕鶴」「東は東」をみて」(原文日本語)掲載。 3月13日、京都で行われた狂言の会で、狂言『末広がり』(場所時間未定)を演じる。 3月18日、上京。嶋中鵬二宅に宿泊。 4月、日本ペンクラブ例会(東京・銀座)にサイデンステッカーとともに出席。ハワイでの捕虜、堀川潭(本名:高橋義樹)の紹介で伊藤整を知る。 「おくのほそ道」を紀行。白河の関、多賀城、松島、中尊寺、鳴子、立石寺、大石田、象潟、金沢、小松を辿る。中尊寺では金色堂内陣の美に感嘆する。『中央公論』6月号に「紅毛奥の細道」を掲載。 4月、長崎、博多を旅行し、The Manchester Guardian 紙に取材記事を寄稿する。 4月、永井道雄と台湾を旅行。 5月9日、嶋中鵬二と谷崎潤一郎を訪ね、京都麩屋町柊屋滞在中の志賀直哉と会う。辻留にてドナルド・キーン帰国の送別会が催され、祇園の芸子舞妓の舞を見る。 5月12日、「つばめ号」で上京。 5月13日夜、吉田健一の音頭取りで送別会が行われる。親しい友人が集まったほか、山本健吉や河盛好蔵らとも初めて会う。 5月15日、午前1時の飛行機で出発し、2年間の日本留学を終えてアメリカへと帰国する道すがら、永井道雄を伴って香港・台湾に2週間旅行する。香港の飛行場で永井と別れ、バンコクへの機上で永井荷風の『すみだ川』を読み涙する。バンコクからマドラスに飛び、汽車でインド南端のマドゥライへと向かうと、現地でフォービアン・バワーズ、サンタ・ラマ・ラウ夫妻に会う。三人でマドゥライからコナラクへ東海岸を車で行く。 6月22日、ギリシャ・デルフィに滞在?(横山正克宛の手紙を書く) 6月の末頃、英国に到着。 8月、約1ヶ月間イタリア旅行。シチリア島のタオルミナの劇場において、独りで狂言を演じる。 9月、フランスの客船リベルテでニューヨークに戻り、コロンビア大学助教授として日本文学を講義。毎週約10時間の授業を持ちながら、太宰治の『斜陽』翻訳を進める。コロンビア大学の教授アパートRiverside Drive 560 20-G に居住。 Anthology of Japanese Literature: From the Earliest Era to the Mid-Nineteenth Century(『日本文学選集:古典篇』)を New York: Grove Press より編集刊行(『万葉集』、空海『請来目録』、『古今集』、『新古今集』、鴨長明『方丈記』、世阿彌『花伝書』、宗祇。肖柏・宗長『水無瀬三吟』、松尾芭蕉『おくのほそ道』『幻往庵記』、向井去来『去来抄』、近松門左衛門『曽根崎心中』等を翻訳して収録)。初版2000部。 ‘Villon’s wife’(太宰治『ヴィヨンの妻』)を New Directions 15 に翻訳掲載。 12月、Anthology of Japanese Literature、重版(以後、現在まで版を重ねる)。 フォービアン・バワーズ、サンタ・ラマ・ラウ夫妻の自宅パーティーに招かれ、メキシコの詩人、オクタビオ・パス(のちノーベル文学賞受賞)と知り合う。 12月27日、太宰治の『斜陽』の翻訳を完成させる。
1956(昭和31)年 34歳
1月、『竹取物語』(The Tale of Bamboo Cutter)を Monumenta Nipponica(11巻4号、上智大学)に翻訳掲載。 2月、京都・金剛能楽堂で狂言『末広』の大名役を演じる。 6月、Modern Japanese Literature: an anthology(『日本文学選集:近現代篇』)を New York: Grove Press より編集刊行(河竹黙阿弥『島鵆月白浪』、坪内逍遙『小説神髄』、二葉亭四迷『浮雲』、永井荷風『すみだ川』、島崎藤村『千曲川旅情の歌』、北原白秋『邪宗門秘曲』、髙村光太郎『根付の国』、石川啄木『ローマ字日記』、横光利一『時間』、萩原朔太郎『夜汽車』『猫』『有害なる動物』『小出新道』、宮沢賢治『詩編1063』、中野重治『歌』、北川冬彦『春雪』『早春』、中原中也『朝の歌』『臨終』、太宰治『ヴィヨンの妻』等を翻訳して収録)。 6月初め、Newsweek 誌の依嘱を受けて来日、第五福竜丸、石原慎太郎の『太陽の季節』などの取材記事を執筆。 8月、大阪の演劇研究会の会員、鳥越文藏らと直江津から船で佐渡へ向かう。両津のホテルで文弥人形を見学。その他佐渡に残る芸能を見学。 8月24日、文弥人形の研究者である佐々木義栄に会う。 9月13日、品川の喜多能楽堂で18時から行われた「ドナルド・キーン氏送別狂言会」(主催:ドナルド・キーン氏歓送会)で狂言『千鳥』の太郎冠者(主何某:梅原楽狂、酒屋:武智鉄二)、『鬮罪人』の立衆(立頭:茂山千五郎、笛:権藤芳一)を演じる。谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、吉田健一、伊藤整、安倍能成、山本健吉、舟橋聖一、丸岡明、森田たま、松本幸四郎(八代目)、野村万作らが観劇する。 9月17日、帰国。 The Setting Sun(太宰治『斜陽』)を New York: New Directions より翻訳刊行。 Japanese Music and Drama in the Meiji Era(小宮豊隆編『明治文化史』)を Tokyo: Obunsha よりサイデンステッカーと共訳刊行。
1957(昭和32)年 35歳
1月、ニューヨークのバーサ・シェーファー・ギャラリーで開催された篠田桃紅の個展を訪れる(初日)。篠田桃紅と初めて出会う。 2月、『日本人の西洋発見』(東京:錦正社版)が刊行される。 4月、永井道雄と台湾旅行。 春、四国紀行。 7月9日、クノップ社(New York: Alfred A. Knopf)の招きで、三島由紀夫渡米。 7月26日、クノップ社の招待で、三島由紀夫とともにブロードウェイのミュージカル『マイ・フェア・レディ』を観劇する。 Five Modern Nō Plays(三島由紀夫の戯曲『近代能楽集―卒塔婆小町、綾の鼓、邯鄲、葵上、班女』)を New York: Alfred A. Knopf より翻訳刊行。 ニューヨーク滞在中の三島由紀夫の『近代能楽集』上演に奔走。 7月か8月、または両月にサラトガスプリングスのヤドー(Yaddo)で小説を執筆。ヤドーにて、小説家のホーテンス・キャリッシャー(Hortense Calisher)と出会う。後に夫となった小説家カーティス・ハーナック(Curtis Harnack)とも親交を深める。 9月、第29回国際ペンクラブ東京大会にジョン・スタインベック、ドス・パソスらアメリカ代表団の一員として参加、各国若手作家の日本留学を提言。 イタリアの作家アルベルト・モラヴィア、イギリスの文芸誌編集者スティーヴン・スペンダーらを京都案内。 10月、『碧い眼の太郎冠者』中央公論社刊(序文:谷崎潤一郎)。 10月2日、ニューヨークのグラッドストーン・ホテルに滞在する三島由紀夫を、キース・ボッフォード、チャールズ・シュルツとともに訪ねる。 11月、アルゼンチンの雑誌 Sur で主宰者:ビクトリア・オカンポ、オクタビオ・パス、日系二世のカズヤ・サカイと共に「日本文学特集」を編集。 12月、’Bashō’s Journey to Sarashina’(松尾芭蕉『更級紀行』)を、The Transactions of the Asiatic Society of Japan, 3-5(日本アジア協会)に翻訳掲載。 12月28日、三島由紀夫、キース・ボッフォードと夕食。 12月30日、三島由紀夫、チャールズ・シュルツ、サム・ゲルフマン(エージェント)と夜明けまで飲み歩く。
1958(昭和33)年 36歳
2月、松山善三・高峰秀子夫妻とメトロポリタン歌劇場でマリア・カラスの《ランメルモールのルチーア》を観劇。 5月18日、大佛次郎をクノップ社編集長ハロルド・ストラウスとともにメトロポリタン美術館などに案内し、ストラウスの別荘で一泊する。 5月末に日本へ行く。 8月5日、谷崎松子宛書簡で15日に上京することを伝える。 8月12日、九州・山陰の旅から京都に戻る(同日の横山正克宛書簡にて報告)。 8月15日、「はと」号で京都から上京。熱海の旅館「桃李境」へと向かい、一浴後(7時頃から)松山善三・高峰秀子夫妻とともに、谷崎潤一郎宅で行われた歓迎会に参加。 8月16日朝、「いでゆ」号にて帰京。 8月17日、三島由紀夫と歌舞伎を観たのち、フランスの雑誌のためのインタビューに応じる。 8月19日、晩に羽田を発つ。 8月25日、日清チキンラーメン発売開始。初めて食べた際にはそのおいしさに感激し、その後もニューヨークへと戻る際に段ボール1箱分を持って帰り、1人で完食するほどの好物となる。 9月7日、『サンデー毎日』増大号に、高峰秀子との対談「青い目の見た日本さまざま」が掲載される。 9月、ドナルド・キーンの推薦で、京都大学の貝塚茂樹が研究員としてコロンビア大学に招聘される。 10月、火野葦平とニューヨークのレストランで会食。 Sources of Japanese Tradition(角田柳作の日本思想史の講義ノートを元にテッド・ドバリーとともに編集)を New York: Columbia University Press より刊行。 No Longer Human(太宰治『人間失格』)を New York: New Directions より翻訳刊行。 嶋中鵬二らと、市川にある永井荷風の自宅を訪れる。
1959(昭和34)年 37歳
1月、’Bashō’s Journey to 1684’(松尾芭蕉『野ざらし紀行』)を、Asia Major, 7, 1-2 に翻訳掲載。 7月、「鷗外の『花子』をめぐって」を「鉢の木会」季刊同人誌『聲』(第4号)に掲載。 7月27日発行の『週刊新潮』(「週刊新潮掲示板」)にて、森鷗外短編『花子』の主人公・ロダンの彫刻のモデルであった日本の女優「福原花子」(本名:太田ひさ)の消息について尋ねる。 8月3日発行の『週刊新潮』(「週刊新潮掲示板」)に、岐阜市に住む花子の息子、太田英雄からの返事が掲載される。 8月、京都観世会館会報誌『能 NOH』(15号)に「能を観る人たち」を掲載。 8月、花子の消息を知るため、花子の養子である太田英雄と会う(8月3日と思われる)。 10月、ヴァージニア大学で、 ‘Modern Japanese Novels and the West’ について講演。 Living Japan(『生きている日本』)が、New York: Doubleday & Company より刊行される。 ニューヨークで小田実と出会う。中村真一郎あるいは河出書房新社の編集者・坂本一亀(坂本龍一の父)の紹介で、一緒に中華料理を食べる。
1月、Major Plays of Chikamatsu(『近松門左衛門傑作集』)を New York: Columbia University Press より翻訳刊行(『曽根崎心中』『堀川波鼓』『丹波与作』『心中万年草』『冥途の飛脚』『国性爺合戦』『鑓の権三』『寿門松』『博多小女郎浪枕』『心中天網島』『女殺油地獄』11編を翻訳して収録)。 3月8日、New York Timesに ‘Thank You, Mr. Tanaka’ 掲載。 コロンビア大学から1年間のサバティカル(有給休暇)を得て、日本に滞在する。文楽と能の研究に専念。 7月21日、井澤元一邸を訪問。井澤元一とともに仁和寺を訪れる。 秋には、京都を離れ東京・原宿に滞在。吉田健一とも親交を深める。また、早稲田大学演劇科の鳥越文藏とともに、金春流の桜間道雄に謡曲『橋弁慶』『熊野』を習う。ひと月に1回約2時間の稽古を4回程度受ける形で、月謝は3000円だった。 11月21日、関西大学大学院講堂にて「日本文学について」講演(主催:関西大学図書館)。約300名が集まる。 12月、東南アジア(フィリピン・マニラ、ヴェトナム・サイゴン、カンボジア・シエムレアブ、ビルマ(現ミャンマー)・パガン、インド(カルカッタ、ベナレス))、中東(レバノン)、地中海のキプロスを旅行し、ロンドン、そしてニューヨークの病床の母のもとへと向かう(南回り・ヨーロッパ経由)。 The Old Woman, the Wife, and the Archer: Three Modern Japanese Short Novels(深沢七郎『楢山節考』、宇野千代『おはん』、石川淳『紫苑物語』)を New York: Viking Press より翻訳刊行。