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追悼 徳岡孝夫さん

2025.4.16 / 

父ドナルド・キーンの最後の親友と言っても過言ではない徳岡孝夫さんのご逝去が報じられた。(4月15日)

心よりご冥福をお祈りいたします。

4月12日にお亡くなりになられたとのこと。今日(4月15日)の夕方私のもとに息子さんからお電話があった。「きっと父とキーンさんは今ころ楽しくやってるでしょう」とのこと。私もそう思う。我が家で飲むお酒は、ズブロッカが多かったと徳岡さんが言っておられた。お酒は徳岡さんもお強かったが、父の方がかなり強かったらしい。遅くなるとソファーで毛布をかぶって一夜を明かしそのまま会社(毎日新聞)に出勤したこともたびたびだった。

徳岡さんは三島由紀夫とも親しかった。市ヶ谷の自衛隊駐屯地で自決する際に前もって知らせた二人のうちの人だったらしい。徳岡さんと父は三島の死後一年を前に旅に出た。それがふたりの出会いであり、それ以来無二の友となった。そのことは、『三島を巡る旅』(新潮文庫)において徳岡さんが綴っておられる。

徳岡さんは、ドナルド・キーンの『日本文学の歴史』(中央公論社)の翻訳も手掛けた。毎日新聞社の徳岡さんが父の翻訳をするにあたっては、中央公論社の嶋中社長が毎日新聞に出向き徳岡さんの上司に了承を得たとのことだ。その後1982年8月にドナルド・キーンが朝日新聞社の客員編集委員になるに及んで二人は袂を分かった。理由は、徳岡さんが父に、「これまで毎日新聞に世話になっていたのに朝日新聞に鞍替えした。アメリカではありえても日本ではそのようなことは許されることではない。日本では個人より組織が大事です」と言われたことによる。父は大変驚いたそうだ。

徳岡さんの奥さんの和子さんも非常に心配された。和子さんは、父に、「これは主人と仲直りしたら着てください」と言って徳岡さんには何も言わず父に半袖のシャツとネクタイをプレゼントした。和子さんは、二人の仲直りを知らず2001年に先立たれた。その後間もなくふたりは徐々によりをもどしていったようだ。

そのことについては、徳岡さんと父の両方から聞いたことを『日本文学のなかへ』(ドナルド・キーン著、文春学藝ライブラリー)のまえがきに私は書いた。その話は私にとってかなり大きなインパクトがあったのだ。『日本文学のなかへ』は、徳岡さんが父にインタヴューして書いて下さった、ドナルド・キーンの自伝だが徳岡さんのお考えも随所にありなかなかの傑作だ。

私が父と一緒に徳岡さんに会うようになったころは(2011年)、まったく二人は無二の友だった。

最後にお目にかかったのは、2015年3月13日でふたりがよく行った横浜港のレストラン・スカンディアだった。その後港を散歩して別れた。ちょうど10年前のことだった。その後徳岡さんは視力を失くされ会うことはなかったが、父とはよく電話ではなしていたし、父の死後私も時々お電話をしてお話しした。時には一時間に及ぶこともあった。

写真は、最後に会ったスカンディアでのふたり、そして和子さんが父に下さったシャツとネクタイ。『日本文学のなかへ』の書影です。

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