まえがき
長年ドナルド・キーンの担当編集者(新潮社)だった堤伸輔氏は、「日本文学の開国」の日を、ドナルド・キーンが京都駅のホームに降り立った、昭和28年(1953年)8月としている。
また堤氏は、「遡ること100年、1853年に、ペリー提督率いる黒船の一団が、浦賀沖に姿を現している。それを機に、日本は200年にもわたった鎖国を捨て、政治・経済両面の開国が、以後100年の間に大きく進んだ。しかし「文学」の岩戸は、太平洋戦争を経た昭和28年の時点でも、閉ざされたままになっていた。」とその理由を説明し、ドナルド・キーンの出現についてペリーと比較して実に見事に表現している。ドナルド・キーンに与えられる評価としてこれに勝るものはないかもしれない。(ドナルド・キーン・センター柏崎・常設展示図録より引用)
また一方で、作家・詩人の松浦寿輝氏は、「わたしは大著『百代の過客-日記にみる日本人』を含むキーン氏の、日・英の二か国語にわたる圧倒的な分業に深い敬意を抱いているが、わたしの経緯はそれにもまして、われわれの「友人」にして「同胞」という彼のこの独自な存在のかたちに向けられている。卓抜な知性と繊細な感性を兼ね備えたこの文学者、というようりむしろ文人を、最初は「友人」として、そして後には「同胞」として得た幸運を、戦後日本はどれほど大きな誇りとしてもしすぎることはない。同時にアメリカ合衆国もまた、自国民のうちからこうした人物が出現したという事実を、みずからの文化の品格と活力の表れとして大いに誇るべきだろう。」(朝日文庫『二つの母国に生きて』の解説「小さな名著」より引用)という指摘もあり、父はこの一文を喜んでいた。
堤氏、松浦氏のこのような指摘だけでなく過去にも現在にも父の業績について的確、かつ印象に残る言葉を残してくださった方は何人もおられる。今思いつくだけでも谷崎潤一郎、三島由紀夫、大江健三郎、司馬遼太郎、大岡信、平野啓一郎などである。それらの貴重な、そして父にとってなにものにも代えがたいありがたい言葉は追々ご紹介させていただきたいと思う。
ここでは父の業績として、父の遺した著作をできる限りご紹介させていただくつもりである。文学者でもない私がどの程度のご紹介ができるか正直なところ分かりません。しかし私なりに、時には父の思い出や父から聞いていたことなども交えつつ、思いつくままに作品をひとつひとつ紐解いていきたいと思います。
※今後随時コンテンツを追加していきます。
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